海外でディベート、つまり議論を交わして能力を高めてきた人にとってはこのよいしょがもっと気持ち悪く感じるかもしれません。
より議論を深めて高みを極めようとする人がいたとしても、日本人はそうした議論を好みません。
年功序列で、年の功の意見が大事だとする見方が大変強く、あらゆる経験を積んで重ねてきたロジックよりも、長年居座った人のほうが価値が高いのです。
誤解のないように書かなければなりませんが、お寺の世界では年を重ねるほどありがたみが出てくると聞いたことがあり、確かにお葬式でお経を読んでもらう人が若手の人であると物足りないと感じてしまうなと思いましたが、それはお寺に限らずどの世界でも共通しているのではないかなと思っています。
議論を交わすということは自分の主義主張をハッキリと相手に伝えたうえで、よりよい話し合いにしていくことでよりよい結論を導き出すことになるのですが、日本の議論とは年長者と実力者によいしょをして意見を尊重することにあります。
そんなことはないと言われるかもしれませんが、これは断定しても良いくらいにどの企業でも見られる傾向にあります。
完全な実力主義でのし上がっていったといえば一番わかりやすい例として信長の家臣団ではないかと思います。
それでも秀吉のよいしょはあったかと思いますけどね。
よいしょには相手の敬意を払うという意味合いも込められているように見えるようですが、単に利用されているとも見える行為であり、最後の最後まで年長者の意見に賛同しているわけではないなと私は外から見ていてそれが多分に見えてくるから醜く見えるのです。
海外、特にアメリカだとは思うのですが、年の功よりも成功者に対して敬意を払う傾向にあると聞いたことがあります。
経験を積んで成功をしてきた人には耳を傾けるとのことで、それが歴史の浅いアメリカが大発展を遂げた大きな力ではないかと思います。
日本においてはアメリカを真似て実力主義をとっているという企業もたくさんありますが、中身を見て見れば経営者の独裁ともいえる取り組みが強く、そこでもよいしょが大きいというところもあるようです。
議論よりも敬意を払えと思う体質が抜けられない以上は、極みの高い議論で発展的なことはないだろうなと思いますし、日本での成長もおそらく期待はできないだろうなと思っています。
国会での議論を重ねたという言葉も、年長者に配慮を重ねたと置き換えればいいのにと思います。