模範とは辞書で調べると『見習うべき見本』と書かれています。
今、世の中でどれだけ模範となりうる人がいるか、これは極めて大切なことだと私は思っています。
一番身近で模範となりうる存在は何といっても『親』であり、親が子どもに対して模範となりうるかどうかが子どもが社会に出た時に大きく影響が出ます。
普段から親が嘘をつくようであれば子供もそれを見てどう捉えるか、親自身が模範となってくるわけです。
親の通りに子どもが行動するかもしれませんし、反面教師として同じようには行動しないかもしれません。
親以外にも当然ながら模範となる人々はたくさんいます。
子どもが成長過程で接する人は親以外に学校の先生がいますし、通学中にすれ違う人たちもそうです。
もし通学中に気になるような動きをする人がいたら目に留まりますし、それを見て自分が同じようにするかこういう人にはなりたくないと判断するかになります。
また、通学以外にもテレビを見ている人たちもまた模範となる方々となりますし、Youtubeで映る人もまた模範となりうる可能性が十分にあるわけです。
誰もが模範となりうる可能性があるわけで、自分の身の振り方というものは常に注意を払わなければならないことになります。
誰もが模範となりうる存在であることを分かりつつ、その中でも特に影響力のある人は気を付けていかなければなりません。
学校という枠にいる人は先生以上に校長先生、企業では先輩社員さんよりも会社の社長、京都府京都市であればそのトップとなる知事や市長と議員さん、そして日本という世の中においては権力を握る国会議員さんたちです。
モラル・模範として見られるべき存在の人たちがその言動ができなければ人はついていきません。
先日は銀座で出歩く国会議員が辞職をすることに対しての疑問を投げかけましたが、これも模範となりうる存在であるにもかかわらず、その行動ができていなかったことに対する処罰だったわけです。
これに関しては厳しすぎる気もしますが、それだけ模範となっていることに対しての意識がなさ過ぎている証拠でもあるわけです。
立憲民主党の蓮舫議員の息子さんが、揚げ足取りばかりせず、コロナに対して真剣に向き合わずに党利党益を優先していくのであれば国会議員を辞めるべきだと静かながらに厳しい批判をされたという記事がありました。
模範となるべき方が身近にいるにもかかわらず、自分の意見を率直に述べたことでネット上のコメントは称賛されているわけですが、最終的には様々な模範があっても自分でどうすべきかを決断しなければならないというわけです。
虐待をされた子どもはその教育方法しか模範がなく、結局自分の子供に虐待していたというケースが後を絶ちませんが、虐待が発覚したときに誰が処罰されるかというと最終的には虐待を受けた過去を持っていても虐待をしてしまった人なんです。
あらゆる環境であらゆることを経験し、自分にとって悲劇の中で育ったとしてもその後の人生は自分で判断していかなければなりません。
先ほどの模範となりうる国会議員さんの辞職に関しても、選んだ側にも責任があるわけで模範となりうる人だけが処罰されることに対して違和感があるのはその点なのです。
国会議員がこれだけ傲慢で党利党益にのみ追求できるようにしたのは模範となりうる国会議員だけが問題なのではなく、それを選んできた国民にも責任があることを忘れてはいけません。
自分に降りかかることはすべて自分の言動の結果です。