人類は日本以外の国を含めたら実に2000年から4000年前から人の上に人を作る時代を形成しています。
ただこれは人類に限らずライオンやサルの社会においても同じで、ボスとなる力の強い動物がその社会を支配しています。
そのように考えると福沢諭吉が提唱する「天は…」のフレーズがいかにもろいものであるかが分かります。
もし天が存在するのであれば人間にとどまらず、動物に対しても上を作ろうとしないわけであり、人間だけ特別格差社会があるわけではないのです。
ライオンの世界においても集団社会についていけないメスライオンははみ出され、集団による狩りができなくなって窮地に追い込まれます。
天は自ら格差社会を人類や動物に作っているのではないかと考えても不自然なことではありません。
このことからも、縄文時代以外のどの時代を生きていても弱肉強食の世界であることは変わりがありませんし、どのみち生き残るとするならば自分自身が強くなるほかないということになります。
これは人間社会においてだけでなく、先ほどのライオンやサルの世界でも同じことが言えますし、他の動物においても生き残っていくためには自らが強くなってライオンたち肉食動物から身を守らなければならない術を身に付ける必要があります。
では植物はどうかというと植物は更に深刻で、どんな環境で生まれたとしても最後まで動くことができずに生き延びなければなりません。
それぞれの動植物の気持ちになって考えればいかに人間が楽に生き残れているかが分かります。
人間社会だけに目を向ければ多大な困難が自分に降りかかっているように見えますが、自分自身が本気で強くなろうと思えば生きる環境を変えたりすることができるので、動植物からしたら楽に見えているかもしれません。
福沢諭吉が言う「天は…」の言葉は私からしたら単なる気休めにすぎないどころか、実現不可能で自然界に真っ向から対立する言葉だなと感じてしまいます。
また、どの時代に来たとしても弱肉強食の世界であり、自分の得意とする分野を身に付けて自分を強くしていくことが大事であるということを本来は伝えていくことが大事なのですが、なぜかしら人は平等が大事であるという点を重要視して話を進めていきます。
あくまで人は集団でものごとを進めていかなければならない点から、仲良くしていく術を身に付けていかなければなりませんが、その中でも強かに自分だけでも勝ち残るように取り組まなければならないことも事実です。
その点をしっかりと考慮しておかないとメスライオンのように窮地に追い込まれてしまうことは間違いありません。
人間社会も今も昔も変わらず動植物と変わらず弱肉強食の世界であり、縄文時代だけが特別な時代だったのではないかと思います。
やはり天は人の上に人をつくり、人の下に人をつくっているのですね。