お葬式は人生の締めくくりであり、最後のお祭りであったりと言われていたりしますが、年を重ねれば重ねるほどその意味が小さくなるような気がしています。
年を重ねれば重ねるほど周りの友だちであったり知り合いや話せる人がいなくなっていて、その人の子どもが親に対する最後の孝行として成立するものなんだろうなと。
残されたものの最後の取り組みとしてではありますけど、自分自身が亡くなるときに盛大二層式をやってほしいという願望が全然ないわけです。
どうせなら死ぬ前に盛大にパーティーやっているほうがどちらも楽しいわけで。
逆に若くして亡くなると知り合いも多くてインパクトも強烈です。
有名人でも若くして亡くなる人はなくなるべくして亡くなっているのかと思ってしまうくらいに残念な思いをしてしまいますが、長生きして死んだとしてもそこまでの残念さはなく、むしろ大往生したということで良かったねと思われます。
不謹慎な内容であったなら申し訳ありませんが、人生というものはそれだけ儚く尊いものだなと感じています。
死を考えることでいつも今という時間を大事にしなければと思っています。
本当にいつ自分に死がやってくるかもわかりませんし、自分の身近な人もこのコロナであったり何かしらの原因で死を迎える可能性が十分にあるわけで。
だからこそ今という時間が大事かと言うことを思い知らされます。
今見ている景色や今話している今という時間は今しか味わえませんから。
当たり前だと思っている今の時間はいつか突然消えてなくなるという事実を受け入れられないと、どこかできっと人生を後悔してしまう気がします。
だからと言って無理をしてはいけません。
今という時間を大事にしようとしても、自分を大事にせずにするのでは意味がありません。
ここぞという時には命を投げ出してもやらなければならないこともあるかもしれませんが、むやみに自分に無理をしても何もいいことはありません。
無理をせずに今という時間が尊いもので大事なものなんだと感じられればそれでいいと思います。