昨日に引き続き、運について語ってみたいと思います。
そして1月17日と言えば1995年に起こった阪神・淡路大震災を私は毎年思い出しますので、その件を踏まえながら運について語ります。
朝の5時46分に突然ベッドが上に跳ね上がり、その後すぐに激しい横揺れが続いた阪神・淡路大震災。
京都で被災したときはまだ高校生で、それまで馬鹿にしていた学校での避難訓練の大事さが一気に膨れ上がりました。
人間って実体験しないとこの恐ろしさが分からないものですが、とにもかくにも私はこの震災で地震というものに対して抗うことができない運命的なものということを痛感しました。
揺れが収まっていつも通りに学校に向かうわけですが、電車が動いていない違和感を感じて駅に向かうと、学校行きのバスが出ていないと言われて帰りました。
私が学校に向かう時のニュースでは京都が震度5強と京都が一番震度が大きかったのですが、バスが出ていないことを知って帰ってからのニュースを見ると、兵庫県が大変な被害となっていました。
高速道路が倒れて、たくさんのビルが倒れて黒煙が出ている映像がまるで特撮映画のようなもので、改めて地震の怖さを痛感している自分がいました。
この時に私が感じたのは、同じ時間に同じように被災したにもかかわらず、私はベッドが上に上がった怖さを感じただけで終わりましたが、兵庫県で過ごしていた人たちは家をなくし、命まで奪われることへの不公平感を痛烈に感じたのです。
兵庫県で暮らしていた人の中にはまじめに一生懸命生きてきた人もいたと思いますし、私以上にものすごく努力を積み重ねてきた人、そして信心深く毎日お地蔵様にお祈りをしてきた人もいたと思うのです。
そんな人達に対しても無慈悲に命を奪っていく大地震に対して、人が持つ運に対しても興味を持つようになりました。
元々生まれたときから人の運が決まっていて、お金持ちスタートから貧乏スタート、もっと言うなら日本で生まれたこと自体から運が決まっているといってもいいのかもしれません。
ただ、そこからどのように運を掴んでいくかは昨日ブログにも書きましたが、運の流れをつかんでいくことが必要となります。
まじめに生きていたとしても、運を掴み損ねてしまったらそれだけで大きく人生の歯車が狂ってしまいます。
手相占いや水晶占いなど、他の人が占った結果に対して右往左往することは決してありませんが、自分の運勢に関して知りたいという気持ちは分からないことはありません。
ただ、人から言われた運勢よりも、自分でつかみ取る運であればそれに対して信じて行動したいなとは思います。
それが生きていく中で最も大切な行動と言えるのかもしれません。
一つ間違えれば天災や交通事故に巻き込まれる運となるかもしれませんから。
どれだけ自分の運を高める行動をとったとしても、最終的には天運に身を委ねるほかありません。
地震が起こらない地域に住んだとしても、天運がなければ別の天災や人災に巻き込まれるかもわかりません。
これが9.11のようなテロの人災であったとしても、最終的には天運がないと言ってもいいのかもしれません。
飛行機がビルに突っ込むことが予定されていたとしても、そのビルで仕事をする運命だった人はそのような天命だったと言わざるを得ないからです。
私が今住んでいる家に飛行機が突っ込んだとしても、それは人災としてではなく天災であり天命だったと言うほかないなとさえ今は思っています。
ただですよ、現世に天運がなかったとしても、もしかしたら志半ばで命を落とすことが来世では恵まれた環境にいる可能性も十分にあるわけで、まじめに生きている人ほど天が欲していると考えることもできるんですよね。
そればかりは死んでからでないと分からないことなんですけど、いざ自分がそうした天災や事故に巻き込まれたら天が自分を欲しているんだろうと考えて死んでいってやろうと思っています。
天運に抗わず、天運に従って生きるほかないので。
ということで今回は運をテーマに書きましたけど、その中でも天運について書いてみました。
天運は無慈悲です。